謎解きに挑戦!

(昭和の初め頃の外観写真)

 

謎解きに挑戦する人はいませんか?

これから話すことは、いまも実際に存在していることです。

 

この謎は、時代に取り残されて、なくなってゆく事も承知の上で、1つのダイイングメッセージを残したのだと思っている。

 

そして今、ダイイングメッセージの謎が解けないまま、このすばらしい建築が消滅するか、謎解きができることによって復活するか?の瀬戸際だと感じている。

社会から必要とされ、一つの文化が生まれてそれが流行り、そして最後には無くなってゆく。

全ての建築がこのサイクルの中にある。

しかしその時代時代に生き、建築に情熱をかけた大工や職人たちの熟練した技は、建物が存在する以上なくなりはしない。

そしてこの建物は今でも見る人に、謎を想起させ、夢にいざなう。

 

前置きはこのぐらいにして、では早速詳しく説明してゆく事にしよう。

 

初めにこの建物が出来た時代背景を知らないといけない。

大正時代に書かれた書物、「全国花街めぐり」には、

名古屋市内では、「現在芸妓置屋 約六〇〇軒。芸妓 大中小(注)併せて二千五百名。

料理屋・待合 併せて約1千軒。尚、名古屋では料理屋という看板がかかって

いる以上、かしわ屋でも鰻屋でも或いは洋食屋、おでん屋、どこへでも芸妓が出入りし、場末に行けばうどん屋でも芸妓を呼んで散財が出来る。」とある。

 

今の人は、名古屋に置屋が600件、芸妓が2500人もいたとは到底思えないであろう。

全国の都市で同じような現象がみられることから、社会が発展してゆく時には、芸妓文化を必要としたのだろう。

今では当たり前になった、パソコンでメールといったコミュニケーション手段が無い時代に、産業を発展させてゆくには、人と人とのコミュニケーションで、直に腹を割った話し合いが重要になる。

人と人とが顔を合わせて、心からコミュニケーションをしないと事業を発展できない。

少しでも良い条件や話を聞きだすために必要とし、協力関係を築くため、芸妓文化が必要だったといえなくもない。

それを叶える料理店や、待合はどんな対応を迫られていたのだろうか?想像するだけでもわくわくする。

 

大正から、昭和にかけてできた料理店は、今でも見ることが出来る。

しかし戦火に遭わずに済んだものだけである。

名古屋で有名な料亭・料理店としては、八勝館、河文、蓬莱軒などがあるが、その時代には、御納屋、南陽館、大吉樓、大又、魚平、、、等々いくつもの店が生まれている。

 

今回紹介の建物は、かつて中京祇園街と呼ばれていた地域、今の東区泉に、昭和7年に建てられた、料亭である。

名前を「若房」(わかふさ)という。

(上記写真は「昭和の名古屋」名古屋タイムズ・アーカイブ委員会編 光村推古書院より昭和38年の名古屋市東区泉界隈の写真で、中京祇園街の看板が見える)

 

早速この建物「若房」を見てみよう。

門をくぐると、そこはすでに路地を感じさせて、名古屋の喧騒を切り離した造りになっている。

建物は中庭を取り囲んだ京都の町屋風の木造2階建てで、建築面積約143.15㎡、延床面積約276㎡もある。

1階に玄関、取次、帳場、厨房、居間、女中部屋、脱衣、浴室、化粧室、座敷(離れ)が2つある。

2階は客間が6部屋あり、和室以外にも洋間が1部屋ある。

現在、オーナーが住まわれているため、プライバシーの関係で、申し訳ないがここで平面図をお見せする事ことはできない。

また実際の建物の中を見ることもできないし、訪問することもご遠慮していただきたい。

 

全体の特徴としては、名古屋市の発展と同時に、その対極として建てられたような佇まいである。

つまりおもてなしの空間として、世を遁れ、山里に侘び住まいするような、草庵風・茶席風な面をいくつも持っている。3畳の和室などもあるが、利休の「直心の交わり」に到達させようと願ったのかもしれない。

草庵風といえば、下地窓や墨蹟窓(床の間の脇壁に開けられた窓)がある。

壁を塗り残す原始的な下地窓は多種多様に、そして至る所にあり、位置も大きさも自由に造られている。

そして壁の随所で開けられている事から部屋の明るさをコントロールしようと試みられたと解釈できる。

コントロールしようとする意図は、華やかな舞を美しく見せることかもしれないし、少し暗くして疑似恋愛を楽しんだものかもしれない。

とにかく部屋に微妙な明暗の分布を創り出し、枠も必要ないことから全てが軽妙に見える。

特に記しておきたいことは、左の写真の八角形の下地窓である。この窓の中の竹の断面は四角形になっている。当然自然の形状ではない。職人の手によって作られたものである。大きな竹を割って、4本の籤状にし、それを貼り合わせて四角の竹にしている。節の位置などすべて合わせながら太さが均一の四角い竹にし、さらに横から竹のひごを通して編み込んでいるのである。当時の時間や労を惜しまない職人の魂を感じられるものとなっている。

擬木の数々も見逃せない。これらがコンクリートでできているとは思われないほど精緻に出来ている。

左上の写真は、「菊」と言う間の内玄関である。丸太の輪切りに見えるが、すべてコンクリートでできている。

また右上の写真はお風呂場の天井を見上げているものだが、垂木、棟、梁は本物の白樺の丸太を組んでいるようにしか見えない。

中庭にはハランの中からまっすぐに立っている立木が見える。これは2階の持ち出し廊下を支えているコンクリート柱で、一見するだけだと原木が立っているとしか見えない。

また塗り壁の下で巾木のように並んでいる半割丸太もコンクリートでできている。当時の左官職人の技術の高さがよく分かる。

建具に関しては、全てが繊細である。特におもてなしをする空間ではすべてが繊細で柔らかい。逆光で見難くなってしまって申し訳ないが、特に玄関の千本格子のガラス戸は、見るからに儚さを感じさせる。すでに壊れている個所も見受けられるので、早急の修復保存が必要と感じられる。

 

無双窓について

左上の写真は「菊」と言う間のガラス戸であるが、このガラス戸を開けると、手すりがある(右上写真)のだが、透かし彫りの下が無双窓となっている。これは畳の上に座ると、ちょうど風が顔に当たる位置になっていて、閉めると視線がさえぎられるよう工夫されている。

また台所(キッチン)のガラス戸の下にも空気を取入れるための楕円の無双窓がある。

コンロの上の換気扇を廻すと熱い空気が上部から排出されて、それと同時に隣の部屋の下から冷たい空気が吸い込まれるよう工夫されている。

 

草庵の建物には、網代が多用されている事が多い。この建物も随所に網代が使われている。それも普通によく見る矢羽根型の網代だけではなく、亀甲網代や枌板の石畳網代、源平網代、籠目網代もある。この建物一つで、網代天井(透かし網代天井は除く)はすべて網羅されているのではと思う程である。

人が天井をよく見ようとするときはいつか?それは寝るときである。亀甲網代などは夜の薄明かりで見ると怪しく、立体的に見えてくるから不思議だ。このほかに葦簀子天井や一枚板の天井など木や竹を組み合わせて、随所に楽しませてくれる。いい夢が見られるかどうかはわからないが、天井にこれほどまでに力を入れて凝ったデザインにしている。これは何故なのか?これが今回のテーマだ。

そしてさらに今回のテーマである謎とは、天井に残されたドットである。私は、はじめこれは点字なのかと思った。盲目の人が上を向いて寝る時に、盲目の人だからこそ読める字をデザインし残したのかと思ったのだ。であれば、このデザインは非常にしゃれている。またこれはテープ状のドットであるから、鑽孔(さんこう)テープ?なのかもしれない。であれば、どのような計算をさせたのだろうか?繁盛をさせるための計算?大金持ちになるための計算なのだろうか?

分かる方、ドットを読み取って判別したい方は是非とも手を上げてほしい。そしてひそかに私に教えて欲しい。

謎と夢は深まるばかりだ。

ここまで読んでくれてありがとうございます。あなたはすでに謎解きに参加したと同時に、古建築にとても興味がある方だとお見受けいたしました。

それで名古屋市に実際に現存するこの建物を後世に残し、職人の技術が消えない様に、少しでもご協力をお願いいたします。

1級建築士 山本和弘

 

 

(注):全国花街めぐりでは「名古屋では芸妓を大中小三段に区別し、大芸妓と小芸妓との中間に中芸妓なるものがある。小芸妓のことを元『フタツイチ』と呼んでいた、蓋し二つで一本など言う意から起った語と思うが、玉代が大芸妓の二分の一という所から起こった東京の『半玉』とは違って、名古屋では、小芸妓は常に二人一組として座敷に呼ばれる習慣があった。今日尚この制度は浜松市辺りに行われているが、名古屋花街ではすでに廃止となり、したがって小芸妓のことは今は上方流に舞妓と呼んでいる。」とある。

全国花街めぐり 松川二郎著 成文堂より